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クリス・テイラー(Chris Taylor、本名:Christopher J. Taylor、1950年6月13日 - 1979年6月29日)は、アメリカ合衆国の元レスリング選手、プロレスラー。ミシガン州ドゥワジャック出身。 1972年のミュンヘンオリンピック男子フリースタイル120kg級銅メダリスト。 かつて誌上やテレビ中継のテロップなどではクリス・テーラーと表記されていた。 == 来歴 == アマチュアレスリングではハイスクール時代の3年間で60戦中58勝2敗、アイオワ州立大学では2年間で88戦中87勝0敗1引き分けという戦績を残す〔。1972年のミュンヘンオリンピックでは、フリースタイルの120kg級で銅メダルを獲得。同大会では、ローラン・ボックの終生のライバルとされるウィルフレッド・ディートリッヒとも、グレコローマンとフリーの両スタイルで対戦〔『Gスピリッツ Vol.23』 P80(2012年、辰巳出版、ISBN 4777810054)〕。グレコローマンではディートリッヒにスープレックスで投げられ敗退したが、フリーでは判定で勝利を収めた〔。 その実績をやはりオリンピック出身のバーン・ガニアに見込まれ、同じくミュンヘン五輪に重量挙げで出場していたケン・パテラと共にスカウトされてAWAと契約〔。1973年12月8日、ミネソタ州ミネアポリスにてレネ・グレイを相手にデビュー。同月には若手時代のリック・フレアーとも連戦した〔。 翌1974年は、1月18日にシカゴのインターナショナル・アンフィシアターにて同じくオリンピック出場経験を持つマッドドッグ・バションと対戦。以降もベビーフェイスの大型新人として、ムース・モロウスキー、ジミー・バリアント、バロン・フォン・ラシク、ホースト・ホフマン、レイ・スティーブンス、ラリー・ハイニエミ、オックス・ベーカー、スーパースター・ビリー・グラハムなど、さまざまなタイプのヒールと対戦してキャリアを積んだ〔。 翌1975年はアンドレ・ザ・ジャイアントやダスティ・ローデスともイワン・プトスキーを交えた6人タッグマッチでトリオを組み、また当時AWAに参戦していたキム・ドクとも対戦。フロリダ(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)、ジョージア(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)、カンザスシティ(ボブ・ガイゲル主宰のセントラル・ステーツ・レスリング)、ノースカロライナ(ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)など、NWAの主要テリトリーにも出場した。 1976年はニューヨークのWWWFにも登場し、3月29日のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦でバロン・マイケル・シクルナに勝利。本拠地のAWAでは、4月から5月にかけてニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦した。同年11月には全日本プロレスの『スーパー・パワー・シリーズ』に、テイラーをコーチしたビル・ロビンソンと共に後半戦特別参加で来日。12月2日の川崎市体育館にて、ジャンボ鶴田の試練の十番勝負第7戦の相手を務めたが、1-1のタイスコアの後、場外でボディ・プレスを自爆しリングアウト負けを喫した〔。 1977年に体調を崩し引退を余儀なくされ〔、1979年6月29日に狭心症で死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クリス・テイラー (プロレスラー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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